ちょうど3年前、延岡市北川町にある可愛岳(えのたけ、標高727m)に、筆者も登ったことがある。可愛岳は西南戦争(明治10年、1877年)で有名な山だ。
可愛岳突破のとき、西郷軍は真夜中に山縣有朋指揮する官軍から逃れ、
四つん這いになりながらよじ登っていく。
緊張しきった中、西郷はこういう。
「まるで、夜這いのごつ、あったなぁ」
真剣な有志らは、みなドッと笑ったのは容易に想像がつくだろう。
西郷隆盛の伝記は世界中に約150冊ほどある。
これだけ伝記がある人物は、イエス・キリストと西郷ぐらいといわれているが、
この西郷の伝記を生前買い漁(あさ)っていたのが、台湾の蒋介石だ。
日本人にとって「永遠の羅針盤」ともいえる西郷の伝記を、
蒋介石はなぜ収集したのか。
知られざる「昭和の軍師」安岡正篤(その5)
大正14年(1925年)、安岡は2度目の満州訪問を果たした。
満州鉄道に呼ばれ、満鉄夏季大学の講演のためだ。
実はこのとき安岡は、「満州の諸葛孔明」といわれる王永江の自宅をこっそり訪れている。
当時満州は張作霖政権で、王永江はかつて張作霖政権の総理大臣を務めたが、
張作霖とそりが合わず、途中で故郷の金州にひきこもっていた。
安岡は、その金州の自宅を訪ねたのだ。
王永江に安岡は日本人の感想を聞いた。
なかなか答えない王永江に安岡が催促すると、一言こう答えた。
「法匪だ」(法匪→ほうひ、法を盾に徒党を組んで略奪する悪者)
王永江は昭和2年(1927年)11月に亡くなっている。
その翌年6月が張作霖爆死事件だ。
安岡は王永江について後日こう述懐している。
「張作霖が王永江をもう少し上手に活用していれば、満州事変は起こらなかったかもしれない。
蒋介石の国民党政府による『中国から日本軍は撤退せよ』との条件は、中国本土からの撤退を指し、
蒋介石の念頭に満州は含まれていない。
日中両国のこの認識の違いが、のちの大きな悲劇を招いた」 (敬称略、つづく)
(写真は、張作霖)

